日本における2系統の獅子舞

日本では全国津々浦々で獅子舞が見られます。その様式は多岐にわたりますが、大きく分けて伎楽(ぎがく)系と風流(ふりゅう)系に大別されます。

伎楽系(舞楽系)の獅子舞は、胴体部分に人が入り、獅子頭を手で操作します。起源は大陸から伝来したと考えられており、西日本を中心として全国的に分布しています。正月に見る獅子舞や神楽での獅子舞をはじめ、ふつう獅子舞というとこの系統の獅子舞を指すことが多いようです。

一方、風流系の獅子舞は1人が獅子頭を頭にかぶる1人立ちの獅子舞で、一般に腹にくくりつけられた太鼓を打ちながら舞います。東日本に主に分布しています。東北の一部には7~十数頭で一組の鹿踊(ししおどり)もありますが、もっとも多いのは3匹1組の三匹獅子舞です。

三匹獅子舞の分布

三匹獅子舞は、いくつかの例外を除いて、基本的には関東から東北・北海道地方にかけての東日本にだけ広く分布する特徴を持つ民俗芸能です。その数は中断されているものも含めて約1400か所とされています*5。とりわけ武蔵国(埼玉県・東京都・神奈川県東部)は獅子舞王国とも言われるほど多くの三匹獅子舞があり、300近くを数えることができます*6。武蔵国の農山村では最も一般的な民俗芸能で、秩父・多摩の山間地域にも数多くの獅子舞が伝承されてきました。

三匹獅子舞の起源

三匹獅子舞は、中世末期に盂蘭盆(うらぼん)の行事として全国的に流行した風流踊のバリエーションの1つと考えられています。風流踊とは、仮装をほどこし、太鼓や鉦などの楽器を持って、あるいは身につけて、はやしながら踊る「中踊り」と、そろいの花笠や衣装を身につけ、扇や花枝、スリザサラなどを持ってその周囲を取り巻いて踊る大勢の「側踊り」からなっていました。このうち、「中踊り」が獅子頭をかぶり、太鼓を胸や腹につけた3名1組として固定し、「側踊り」が花笠をかぶりスリザサラを摺(す)るササラスリとなり、四方を固める最小限の4名に縮小され、三匹獅子舞がかたちづくられたといわれています。こうした三匹獅子舞は、江戸幕府の成立当初、江戸を中心とした地域に現れ、東国の幕藩領主が限られた村々に伝えさせたと推定されています。こうしたものをいわば家元として、元禄期(1688-1704)頃までには成立してきた東国の近世村落において、若者組が担う神事芸能として広範に伝播していったのです*7。

秩父・奥多摩の獅子舞

秩父・奥多摩地方の獅子は、シシ、すなわちイノシシやカノシシ(ニホンジカ)などを象徴していると思われます*8。武蔵国の山つきの地域では、現在スギやヒノキが植林されている山地で広く焼畑が営まれ*9、村人は焼畑の作物をめぐって、シシと格闘の毎日を送っていました。シシは、鉄砲が自由に手に入らない近世にはなかなか「駆除」できず、焼畑の出づくり小屋で不寝の番をして追い散らすしか手段はありませんでした。追い散らすにも限度があり、シシが焼畑に出没しないように、シシたちの心を鎮めることも1つの大事な方法と考えたと思われます。シシを型取った姿に身を移し、神に捧げる舞を演じることで、これを達成しようとしたのがその原点ではないでしょうか。

これらの地方では、18世紀に入ると江戸に向けて炭・材木が大量に生産されるようになり、山間村落の生活にも余裕が生まれました*10。この余裕は、多様な芸能を村々に成立させました。獅子舞においても、神への祈りや人々の日常生活の様々な局面を折り込み、演出することで、多面的な内容をもつ組曲として発展させていきました。また、村から村へと伝えられていくことで、多くの獅子舞が現在に継承されているわけです。

下名栗への伝承

下名栗諏訪神社の獅子舞は、寛文元年(1661)に創始されたとされる多摩郡大丹波村(現東京都奥多摩町大字大丹波)青木神社*11から、同郡上成木大沢入(おおぞうり)村(現青梅市成木七丁目)高水山常福院へ伝えられ、そこから下名栗村へ伝授されたものです。なお、下名栗村にはそれ以前にも獅子舞があったと推定され、隠居獅子とよばれる下あごのない獅子頭が2つ残されています。1つは雨乞いのため、川に流したと言い伝えられています*12。

上成木では、大丹波から師匠を招いて明和5年(1768)から稽古を始め*13、寛政7年(1795)に獅子舞秘伝書が伝授されています*14。下名栗では、現在の獅子頭に文化5年(1808)造立*15とあることから、この年頃より習い始めたと考えられ、天保14年(1843)に秘伝書「日本獅子舞之由来」を与えられています*16。どちらも伝習期間に約30年をかけているわけです。

青木神社・高水山の獅子舞

一番おおもとの大丹波青木神社の獅子舞について、『奥多摩町誌 民俗編*17』は、文挟ふばさみ流の獅子舞として奥多摩町内にある大氷川、棚沢、栃久保、峰、小留浦、原、坂本の獅子舞と同類としています。しかし、「その演舞には多くの相違が見られます*18」とも記しています。実際に拝見しますと、節や内容に類似の所がありますが、一般の文挟流が9から12の演目で、各演目は多くが30分程度、長い演目でも1時間程度であるのに対し、大丹波では7つと少なく、1つ1つが長時間を要します。また各演目の構成と内容も複雑になっています。おそらく大氷川などの文挟流の獅子舞が先ず存在し、それをもとに、大丹波で新たに創作された獅子舞と推定されます。その時期も、創作者もわかりませんが、驚くべき創造力の持主だったことがしのばれます。

大丹波・上成木・下名栗は、親・子・孫の関係にあります。しかし、それぞれを見比べてみますと、節と内容はほとんど同じものの、その所作やテンポはずいぶん違う所があります。青木神社の獅子舞はゆっくりとしたテンポで進められ、大きく、力強く、奥行きのある舞が舞われます。ササラの摺り方が複雑で、これを習得するにはかなりの努力が必要です。上成木の獅子舞は、テンポがよりゆっくりで、1笛ごとに1呼吸おいています。また、所作については、1つ1つの型を非常に大切にしています。伝統を重んじた古式ゆかしい獅子舞として現在に受け継がれており、見る者の心が洗われるような荘厳な舞が披露されています。

下名栗での振り付け・演出

下名栗にも当初はこうした獅子舞が伝授されたと推定されます。しかし、その後の継承過程で次のような変化がおこりました。

1つ目は、ササコと呼ばれる基本的な足使いの完成です。1、2と左右の足を交差させて踏み、3で腰を深く落すササコを、動作にメリハリが利くように、明快な力強い型に仕上げていきました。

2つ目に、様々な演出が加えられてきました。その第1の条件となったのは、演じる庭場が広いことです。上成木高水山の庭場に比較して、長さにして2倍、面積にしたら4倍はあるでしょう。この広い庭場をできるだけいっぱいに使おうとして、スキップや、裏拍で次の動き出しの調子を整える足使いである「捨て足」などを多用して、大きく、スピード感のある動きを作り出しました。その結果、テンポも次第に早くなってきたと考えられます。

第2の条件は、下名栗の村人の派手好みな気質です。下名栗村は江戸時代から村人の間に階層性が小さく*19、様々な面で個の能力を発揮することができました。明治期からの社会教育活動によってこれが益々促進され、明治後期から大正期には炭・材木・養蚕の好景気があり、第2次世界大戦後には材木の好景気があって*20、その気質は開花していきました。

これに即した演出は「白刃」の太刀遣いの所作に典型的に表われています。観客に見応えがあるようにと、少しずつ派手さを追求する振り付けが加えられました。それを可能にしたのは、刀が長脇指だったためと考えられます。大丹波の青木神社や上成木の高水山の獅子舞は長刀が用いられています。これでは振り回すことができません。下名栗では長刀に比べれば短い58cmの長脇指だったので、派手な振り付けが可能になったのでしょう。

こうして、下名栗の獅子舞は、大丹波で創作された極めて高度な内容に加えて、派手に「狂う」勇壮さをあわせもつものとなったのです。一般に三匹獅子舞には素朴な舞が多い中で、下名栗の獅子舞は現代人にも判りやすいものとして今日に受け継がれ、多くの方々の支持をいただいています。