江戸時代から昭和戦前期

江戸時代後期の下名栗村は、炭・材木の生産が主要な生業の村でした。明治になってからは、これに養蚕が加わりました。

この獅子舞は19世紀初めに現青梅市成木7丁目(近世には多摩郡上成木村)にある高水山の獅子舞を伝授されたものです。獅子舞の譲り渡し書である天保14年(1843)「御獅子一件議定書之事*21」によれば、当初は上成木大沢入おおぞうり村から「下名栗村若衆」に伝えられています。若衆とは若者組のことです。獅子頭は、その後頭部の記録には文化5年(1808)に造立とあります。恐らく獅子頭を新しsく作った頃の文化初期に習い始め、30年以上の伝習期間を経て、天保14年に免許皆伝になったと思われます。なお獅子頭は、以後8回修繕・塗替えされてきました。天保12年(1841)、嘉永7年(1854)、安政5年(1858)、明治16年(1883)、明治45年(1912)、戦後になって昭和31年(1956)、平成8年(1996)、平成21年(2009)の8回です*22。

明治27年(1894)からは、「役割帳」あるいは「獅子舞役割帳」という配役記録が現在まで残されています*23。これらによれば明治中期には、役者は氏子の中の有志によって担われていたことが知られます。明治・大正・昭和戦前期は、獅子舞役者と呼ばれるだけで明確な組織はありませんでしたが、「役割帳」に記載されることで、各役者は自らの位置を確認していたと思われます。この時代の獅子舞役者は、各家の長男を始めとする相続人でした。獅子舞の技の村外への流出を防ぐためだったと言われています*24。職業は炭焼き・杉伐りなどの林業労働に携わる者がほとんどでした*25。また同史料などによって、ササラスリは明治期以後、初潮を迎える前の少女によって担われていたことがわかります。ササラの衣装は、揃いの日には自分の振り袖で踊ったため、そうした着物を持つ家の子どもでないと担当できない役割でした*26。

戦中・戦後の継承

獅子舞は戦中・戦後も休むことなく続けられました。戦争の激化した昭和10年代末期には、多くの若者や中堅の働き手が徴兵・徴用のため不在となったため、年配の元役者が再び獅子頭をかぶり継続しました*27。昭和20年(1945)にも、敗戦10日後の例大祭に獅子舞を奉納しています*28。

戦後復興が進みその後の昭和30年代を中心とする時代は、下名栗地区も製炭・養蚕が衰退するものの、木材景気に沸き、造林を拡大していった時期でした*29。

サンフランシスコ講和条約の公布された昭和27年(1952)、8月の例大祭を期して、獅子舞役者たちは自覚的な組織「下名栗諏訪神社獅子舞保存会」を発足させました。当初の会員は正会員36名、準会員24名(ササラ)でした*30。諏訪神社の氏子集団の中にありながら、機能的な集団を組織したことになります。以後この保存会が芸の継承と後継者育成に積極的に対応していきました。

この時期の練習は、夜、親方(師匠)の家に近所の保存会員やササラスリが集まり行われ、例大祭が近づくと諏訪神社の境内で仕上げられました。主な練習日は8月1日の稽古始めから、七夕7日と盆前12日の夜、盆休みの15、16日は昼稽古、23日が稽古仕舞いで、24、25日が祭礼でした。8月は杉伐りの最盛期であったため、稽古に多くの時間を割くことはできませんでした。獅子の役割は、役者を退いた保存会員が相談して決定していました。

高度経済成長と継承方法の変化

昭和34年(1959)には、30代の保存会員を中心に、例大祭を8ミリフィルムに撮影し、多大な時間を使って録音・編集し、記録映画を作製しました。この時代に記録映画を残すという斬新な発想に驚かされます。当時の舞と節、さらには下名栗の景観や観衆の民俗をも後世に伝える貴重な映像となっています。この映画は平成6年(1994)にビデオテープに収録し、さらに16年(2004)にはDVD化し、各家庭で鑑賞できるようにしています。23年(2011)には、原盤の8ミリフィルムと録音テープを飯能市郷土館に寄託してよりよい保存を依頼し、DVDのデータは全てYouTubeへアップロードしました。

高度経済成長期になると、保存会員の仕事も次第に林業労働から通勤型へと変化し、村の多くの若者が村外に仕事や住居を求めていきました。過疎が進んだ時代でした*31。この間も保存会は後継者を絶やすことなくその育成をはかるため、後継者不足が深刻化する中で、長男にこだわることなく次・三男も加入できるようにしました。ササラスリも、子どもの減少にともなって、中学生にも依頼するようになりました。昭和40年代以降になると、練習は諏訪神社の社務所に集まって行われるようになりました。

村の文化財そして県の文化財へ

昭和41年(1966)3月の名栗小学校竣工式には、上名栗の2つの獅子舞とともに、校庭で「白刃」を披露しました。それまで名栗村には3つの小学校があり、それぞれの校区にほぼ対応して3つの獅子舞がありました。3つの小学校が1つに統合されたのを記念して、3つの獅子舞が同時に公演されたのです。下名栗の獅子舞にとって記録に残る限りでは境内の外、しかも下名栗の領域を出ての初めての公演でした。これを機に同年11月には村内の他の獅子舞と共に名栗村の文化財に指定され、同時に長年獅子舞に貢献した無形文化財の保持者も認定されるようになりました。各獅子舞はそれぞれの氏子のものであると共に、村の文化財として認められたのです。

この頃からは練習日も増え、後継者の育成と技の継承をより積極的に行うようになっていきました。保存会員自身が獅子舞の価値を強く自覚するようになったからです。こうした努力が広く村外からも認知され、昭和55年(1980)には「埼玉県文化ともしび賞」の受賞を始め、翌56年の有間ダム定礎式には「白刃」を披露し、59年(1984)には埼玉会館郷土資料室主催の第108回展示「さいたまの獅子頭」に獅子頭を出展、60年(1985)には埼玉県文化財保護協会から「文化財功労者・優良文化財保護団体」として表彰されます。そして同年、埼玉県の無形民俗文化財指定に向けての申請書を提出しました。翌61年の例大祭にはそのための調査が実施され、埼玉県民俗文化センターの第47回民俗芸能公演「獅子舞―太刀―」への出演を経て、62年(1987)には埼玉県指定の無形民俗文化財となりました。63年の例大祭の音は埼玉県民俗文化センターによって録音され、LPレコード『埼玉の民俗音楽 獅子舞シリーズ(3) 下名栗の獅子舞』が製作されました。その際、笛方の長老村野多重氏指導の下、親笛の塩野貞一氏と獅子の大久保義雄氏によって笛の口唱歌くちしょうが(ジゴト)が編集され、このレコードに添えられました*32。